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2011.02.28 00:40 更新

GOGOジパング151

鬼柴田、白雪の墓標/北ノ庄城址(福井市・福井県)

 

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 天正3年(1575)8月――強敵・武田勝頼を長篠設楽ケ原で大破した織田信長は、7万(10万とも)の大軍を率い越前の攻略に乗り出す。越前は朝倉義景の滅亡(1573)で信長の支配下となるも、直後に大規模な一向一揆が起き、石山本願寺の領するところとなっていた。

 長島一向一揆の平定に続く長篠の大勝で小康を得た信長は、ここに至ってようやく越前奪還に本腰を入れるわけだが、その復讐心は凄まじく、一揆勢は男女老若の見境無く殺害された。その数3万とも4万と言われ、越前の府中は死体で埋め尽くされたという。「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候。見せたく候」(織田信長、村井貞勝宛て書簡)

 この大虐殺の後、越前の大半は、信長配下随一の猛将・柴田勝家に与えられた。越前8郡75万石の所領は、次点の明智光秀50万石に大きく水を空ける織田家中トップである。まだ治安が定まらない上、隣国加賀の一向一揆、越中・能登に勢力を伸ばす上杉謙信など、内外の脅威が大きかったための抜擢だろうが、軍事と共に民政にも長けた勝家は、信長の期待によく応えた。秀吉の政策として知られる刀狩も、元は勝家の発案だといわれている。

 その勝家が本拠としたのが、現在の福井市に位置した北ノ庄城だった。城の全容は不明な点が多いが、一説には9層の天守を持ち、信長の安土城に匹敵する壮麗な城だったという。越前は、次第によっては対上杉謙信の拠点になりえたので、北の守りとして遜色ない城塞が求められたのだろう。

 

 残念ながら、柴田勝家は天正11年(1583)の賤ケ岳合戦で羽柴秀吉に敗れる。4月23日、本拠の北ノ庄を包囲された勝家は、妻・お市やわずかな家臣らと最後の宴を張り、翌日壮絶な最期を遂げた。9層の天守を誇る北の大城郭は灰燼に帰し、今では安土と共に幻の城として伝えられている。

 

 現在のJR福井駅近くには、北ノ庄城の本丸跡といわれる場所があり、勝家を祭る柴田神社が建立されている。境内には柴田勝家とお市の方の像が立ち、戦国の面影の一片をうかがわせる。北に散った猛将の無念を慰めるように、収まりかけた雪が再び激しく降り始めた。

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(写真上)雪に覆われる北ノ庄城跡。現在は柴田公園として、勝家を祭る神社や像が設けられている。神社の幕には勝家の旗印「二つ雁」も

(写真下)勝家と共に散ったお市の像。側には彼女が残した三人の娘たち。北ノ庄は母娘、今生の別れの地でもあった

 

 

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