2009.04.20 07:42 更新
待ちに待った玉利潤子さんの展覧会がニッセイギャラリー稲音館で始まった。鹿児島在住の玉利さんは現代童画展の大賞(2006)受賞画家で、作品は童画と紹介されることもあるが、私はむしろ幻想絵画ではないかと密かに思っている。
言葉と映像が対称することによって私たちのコミュニケーションは成り立ち、その多くが記憶に頼っているとするならば、彼女が描き出すイメージはどこから生まれて来るのだろう。
西洋風の寝椅子に横たわる女性が中心に置かれた「夢」(写真上)は、明らかにこの世のものではない幻想世界だ。赤くシルエット化された柱は、夢の回廊を支えているのだろうか? 風船のつながれた背もたれのある椅子も動き始めている。画面全体に流れる雲の切れ切れは、ひとつひとつが記憶の断片とでもいうのだろうか...雲は画面下まで描き込まれており寝椅子の浮遊感が強調される。そして不思議なのが、人でもなく虫でもなく、女性的なラインで、背中に羽を生やした妖精みたいな生き物たち。しかも、画面左下を疾走する見慣れぬ動物が、この幻想世界の住人が羽の生えた妖精たちばかりでないことを告げている。中央の女性は、やはり作者自身?
「化石の森の神話」(写真左下・部分)でも、魔女のように宙を飛ぶ、女性的なボディラインの赤毛の妖精たちが登場する。"森"といいながら画面に木は見当たらず、目立つのは、白壁から手が生えたように見える窓付きの建築物の群れ。化石と呼ぶなら、建物は廃墟なのか...にしては楽しそうだ。
「伝えたい言葉」(写真右下・部分)でも、控えめであるが小さな球体があちこちに浮遊している。女性と思しき人物は右手に四葉のクローバーを持ち、左手に緑のハート形を持っている。画面下の小動物たちは二組のカップルと見ることも出来るが、伝えたいのが"愛"の言葉なら、これほど移ろいやすく不確かものはない。もちろん他の言葉かも知れない。そもそも中央の人物の目線は定まっておらず、伝えたい相手は画面の中にはいないのだろう。
苦悩であるのか、歓喜であるのか。
画面に登場するさまざまなサインやキャラクターを見ていると、つい自分でストーリーを作ってみたくなる。物語の主人公の気持ちを考えてみたくなる。
けれど、それは作者の本意ではないかも知れない。喜怒哀楽の解釈を超えた場所に潜むものの力を、画家は引き出そうとしているように思える。夢と呼ぶには漠然としているが、それは確かに存在し、言ってみれば魂の故郷みたいなものだ。玉利潤子さんは案内人として、ヴィジュアル化し、私たちは彼女の絵を見ながら、感受性を起動させる。最終的に私たちは自分で見つける必要がある。もし最後のイメージが違っていたとしても、玉利さんは微笑むだけだろう^^
ギャラリー・オーナーの新森さんは画家とは親友で、話によれば、玉利さんはご自分で服も作れば、クッキーも上手に焼くという、多芸な方であるらしい。ぜひこの機会に作品をご覧ください。<HAL>
