第28話

運に恵まれ神に見放され

 前回に続いて尾籠(びろう)な話で申し訳ないが、その日も授業中に突然、下腹部のチクチク感に続いて背筋を悪寒が走った。「やばい」。頃合いを見計らって、例の「保健室行き偽装工作」に出た。保健室に行くと見せかけ学校を脱出、家に帰って用を足す作戦だ。

28-1.gif 家に帰るには、校門を出て甲突川を上流へ少し遡り、天保山橋を渡って今度は対岸を河口の方へ逆U字形に下って来なければならない。こんなときはいまいましいほど遠回りな道のりだ。
 学校を脱け出して天保山橋に差し掛かった頃、下腹部を強烈な差し込みが襲った。腹の中は「キュ~ルキュル、グ~ルグル」運動会か演奏会の最中だが、そんな悠長なことを思ってる余裕はない。体は震え、おそらく蒼白だったろう顔面は冷や汗でぐっしょり。もう一歩も歩けそうにない。動けば漏らしてしまいそうだ。
 家までは、とても持たない。どこか近くにトイレはないか。「うん○は家で」のモットーなど、もうどうでもいい。必死で周りに目だけを走らせた。河畔に公衆トイレでもありそうなものだが、見える範囲にはそれらしき物はない。
 もう限界、という時に橋のたもとの建物が目に入った。それは新しく建ったばかりの集合住宅らしい。平屋で通学路になっている国道からやや低い位置にあり、これまで気にも留めなかった。切羽詰まって働く第六感かもしれないが、そこへ行けば何とかなりそうな気がした。神頼みしながら最後の気力を振り絞り、建物に続く階段を下りた。
 願いは通じた。トイレは住宅の外にあった。2つ並んだ「女性用(大用)」の手前のトイレに飛び込んだ。ズボンを脱ぐのももどかしく、腹にたまった暴発寸前のモノを解き放った。間一髪セーフ。痛みと快感、地獄と天国は紙一重だ。「最悪の事態をウンよく免れた。この地上のものすべてに感謝したい」。大げさでなく、そんな気持ちだった。

tennsenn.gifのサムネール画像 さて、そろそろ...。最後の締めくくりのため、冷静になった目で個室の中を見回した。そして、また新たな危機と遭遇している事実に愕然とした。紙がない。ふけない。人生たまに運には出合えても、神の助けがいつもあると思ってはならない。ウンには恵まれ、カミに見放された。
 「やっぱり生徒手帳にあるとおり、ハンカチとちり紙はいつも持ってなきゃ」と、こんな所で反省しても遅い。まずは打開策を講じなければ。いつまでもこのまま閉じこもっているわけにもいかない。次の授業までサボると、さすがにただでは済みそうにない。
28-2.gif 「隣のトイレには紙があるかも」。ボクは移動する手段に出た。ズボンも下着も下ろしたまま、ごそごそと隣のトイレに移った。「神様、紙がありますように」。祈りは通じた。ここには、ちり紙が残されていた。
 無事に窮地を脱した心地でトイレの戸を開けた瞬間、心臓が凍りついた。目の前にアパートの住人らしき若い女性が立っている。一部始終を目撃されていたのだろうか。不審のまなざしをこちらに向けている。ボクは一言も発せず、頭も下げず、逃げるようにその場を去った。それからしばらくは、学校の行き帰りにそこを通る度、あの女性に会いはしないかと気をもんだが、一方で「きれいな人だったなあ」と場違いな感慨にもとらわれていた。

tennsenn.gifのサムネール画像 そんな出来事もすっかり忘れていたある日のこと、美術の若い教師の自宅を訪ねることになった。所属している新聞部にボクが提案した学校新聞の新しい企画「先生宅訪問」のインタビューである。先生の家に押しかけ、普段の生活や素顔を紹介しようという狙いだが、ついでに先生の秘密も探ってしまえ、という魂胆である。その第1号が新婚ホヤホヤの美術教師だった。
 女子部員の案内で先生の家に向かった。天保山橋に近いアパートだ。初めて来たが、どこか見覚えもある。ひと通りインタビューを終え、雑談でも面白いエピソードが聞けた。「よしよし、いい記事が書けそうだ」と満足していると、玄関を開ける音がした。
 「おう、うちのやつが買い物から帰って来た」。そう言う先生の声に振り向くと、そこに立っていたのは紛れもなく「トイレ事件」の目撃者であった。


  
次回は第29話 映画三昧




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