第15話
「チョーン」「カチョーン」
紙芝居のおじさんが打つ拍子木の音につられて、あっちの路地、こっちの路地から子どもたちがウヨウヨと集まってくる。絵物語の活劇が始まる頃には、紙芝居を荷台に積んだ自転車の周りは子どもで埋め尽くされる。出遅れると人の頭しか見えず、じれったい思いをすることになる。
あの頃は子どもの数が多かった。
授業が終わると学校を飛び出し、息を切らせて家まで走る。背負ったランドセルの中で教科書がバッコン、バッコン跳びはねている。玄関先からランドセルを家の中に放り込むと、近くの広場に急いだ。遊び場をとられてしまうからだ。案の定、広場はもう子どもたちで埋まっている。
ボクより少しだけ早く着いた仲間が、ほんのわずかなスペースを確保してくれていた。遅れて到着した別の2人と合流し、狭いスペースでもできる遊びを考える。三角ベースの野球もできない狭さだ。まずはビー玉を使う「穴入れ」遊びから始めた。周りの様子次第では少しずつ「領土」を広げていける。
遊び場がやや広がったかなと思えた頃、仲間のひとりがポケットから「2B弾」を何本か取り出した。2B弾は爆竹と同じく火薬の詰まった紙筒のおもちゃだ。ポケットの中で破裂する事故が絶えず、学校では一応「禁止」となっていたが、「掟やぶり」は横行していた。
細い筒の片方にある着火部分をマッチのように擦って遠くへ投げる。パーンという破裂音がスリリングなのだ。着火させてから破裂するまで数秒かかる点が遊びの要素になる。
ボクらはひとり1本ずつ手に持ち、順番を決めて点火。頃合いを見計らって投げ上げ、空中で破裂させる。このタイミングが早過ぎると地面に落ちた後に破裂し、みんなから「ヤッセンボー(意気地なし)」とそしられる。それが嫌で手に長く持ち過ぎると、投げる前に耳のそばで「パーン」。耳の奥が「キーン」。しばらくは何も聞こえなくなる。
こんな遊び方もある。みんなで大きく円を描くように陣取り、ジャンケンで勝った奴が1本の2B弾に着火して右隣に投げ渡す。右隣はそれを急いで拾い上げて次の奴に投げる。これもタイミングを誤るとつかんだ瞬間、あるいは手を離れる前に大音響をお見舞いされてしまうが、うまく事が運べば空中爆裂ショーを演出できるのだ。
この2B弾遊びが始まると、周りの下級生や女の子たちはクモの子を散らすように逃げ去るので、難なく領土は広がった。ただし、やけどや学校にバレたときのリスクと引き換えだ。
つい2B弾の話になってしまったが、たまにはそんな「禁じ手」も使わなければ遊び場に事欠くほど子どもの数が多かったということである。
戦争が終わった翌年の昭和21年頃から数年間、日本では赤ちゃんの誕生ラッシュが続いた。国中が子どもだらけの時代の始まりだ。その子たちが小学校に入学すると小学校が、中学校に進むと中学校が膨れ上がった。学校も教室も足りず、1学級に50人以上も詰め込まれるのはざらだった。
「団塊世代」はボクらのすぐ先輩に当たる。ボクらも数ではそう負けていない。日本の人口構造において巨大な塊をなすこの世代が年をとると、わが国は老人だらけの国になり、死んだら墓だらけの国になるのだろう。
それはともかく、当時の日本は貧しかったはずなのに子どもをジャンジャン産んで育てた。戦地から大量に引き揚げてきた若い兵士が新しい家庭を持ったことなども要因だろうが、当時は今より子どもを育てやすい環境だったのかもしれない。貧しくても家には一緒に子育てをしてくれる年寄りがいて、地域の人たちも何かあれば助けを惜しまない。将来を託す子どもたちにみなが厳しく優しく手を差し伸べた。
数が多いから当然競争は熾烈だ。運動会の徒歩競技では一度に12~13人が狭いコースを走ったものだ。公園など近くにないので遊びでも競争が生まれる。奪い合いを繰り広げた広場も実は運輸会社のトラックターミナルだった。物資の乏しい時代でトラックの数も便も少なく、子どもが遊んでいてもさほど邪魔にはならないと、大目に見てくれていたのだろう。
今はどこの住宅地にも整備された公園はあるが、子どもの姿をあまり見かけない。塾通いや習い事で忙しく、外で遊ぶ暇などないのだろうか。
現代は「競争社会」だといわれる。「格差社会」で少しでも優位に立つために学歴や資格を競うのだという。目に見えない相手との冷たい競争だけが拡大している。
次回は第16話 アイスキャンディー