第話
西村繁男という絵本作家がいる。代表作には「おふろやさん」(福音館書店)という絵本がある。どこかしらの街の銭湯が舞台だ。脱衣場、壁に描かれた大きな富士山。湯船にじっと目を閉じて、浸かっているおじいさん。兄弟だろうか、背中の流しっこをしながらはしゃぐ子どもたち。そこに頑固親父の雷がおちる。女湯と男湯の壁を隔てて大声で会話する夫婦......。
不思議なことにこの絵本には「言葉」はいっさい登場しない。だがそこで交わされるにぎやかな普段着のやりとりがまるで聞こえてくるようだから不思議だ。銭湯とは昭和40年、50年代までは街一番のコミュニケーションの場だった。だからことばなど書き込まなくても、銭湯を知る世代の人々にとって、生き生きとした風景と会話は当たり前のことなのだ。
だがその銭湯も日本各地の街から姿を消しつつある。このことは私たちの暮らしにどんな影を落としているのだろうか。
鹿児島県は温泉天国といわれている。市内の銭湯も、ほとんどが温泉なのだ。が、その中心地たる天文館に、残念なことに銭湯はない。
昔からそうなのだろうか。
調べてみることにした。保健所、あるいは鹿児島県公衆浴場業生活衛生同業組合にたずねるのが手っ取り早いのだろうが、住宅地図を1年ごとめくって調べることにした。街の様相の変化とどう関わっているのか、そんなこともわかるかもしれない、と。
鹿児島市の住宅地図に住宅全戸が記載されるようになったのは、昭和31年(1956年)からだ。次は昭和35年(1960年)まで飛ぶ。両年の市街地図をひろげてみた。
東千石町、山之口町、樋之口町、呉服町、舟津町、松原町など現在でいう中央地区を細かく見ていく。
すると、東千石町には分家無邪気裏あたりに「天文館湯」、中町には吉田金物店裏に「中町湯」、山之口町には山之口本通り三官橋通り寄りに「山之口温泉」、樋之口町には文化通りに面して「染川湯」、舟津町には「銀座湯」「船津湯」の2軒の銭湯が、少し離れて松原町には「大門口湯」がそれぞれ記載されていた。ただし「銀座湯」が見えるのは昭和35年版のみだ。31年版にはない。「大門口湯」が登場するのは35年版からだ。
次の37年(1962年)版では、早くもその「銀座湯」が消えている。47年(72年)には「中町湯」が消え、中町駐車場と改められている。56年(81年)「船津湯」、58年(83年)「天文館湯」「大門口湯」が消え空白となり、「船津湯」「大門口湯」はそれぞれ消えた翌年駐車場として記載されている。最後までがんばったのは「染川湯」だが、これは平成2年(1990年)が最後の記載で、翌年駐車場となっている。天文館から銭湯が消えて、20年近い歳月が流れようとしているのだ。
天文館から銭湯がなくなった理由は、第一に店と住まいをいっしょにしているひとが減ったこと。第二に、住んでいても家風呂が普及したということをあげるひとが多い。
実際住宅地図を見ていると、昭和40年代後半までは個人名の住宅がまだまだ多いが、50年代以降は住宅よりも店舗、事業所の名前が目立つようになる。つまり繁華街が広がり、街全体が商業地化していくのだ。そして平成に入ると、中心部を取り囲むように集合住宅、マンションが目立ちはじめる。先の二つの理由が、暦年の住宅地図の変化からも透けて見えてくるようだ。
銭湯が庶民の暮らしのコミュニケーションの場だったとしたら、天文館からのその消滅はいったいなにを意味するのだろうか。暮らしのあり方を、もう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。![]()